1. 今日のコラム/珈琲がつくる自分に戻る時間

職人の手仕事によって、革製品をつくる土屋鞄。分野は同じでなくとも、ものをつくることや製品に対する想いに対して共感することに、日々たくさん出会います。ものづくりにまつわる日本各地の出来事や、古くから伝わる日本の美意識、お話をうかがってみたいと心惹かれる方についてなど。今日のコラムでは、土屋鞄のスタッフが共感し、多くの方と共有したい話題についてお届けします。

珈琲がつくる、自分自身に戻る時間。


FRIDAY, 29 MAY 2015

ほんの数年前まで東京都南青山に、とある喫茶店がありました。ビルの二階に掲げられた看板には、白く堂々の文字で「大坊珈琲店」。オーナーであった大坊勝次(だいぼうかつじ)さんは1975年にこのお店をオープンし、そして2013年の12月にビルの取り壊しを機に閉店するまで、38年もの長い歳月を、珈琲を作ることにかけてきました。今も閉店を惜しむ声、そしてお店の再開を願う声も、あちらこちらから聞こえます。

なにかを作り出すことへの信念やこだわりは、ジャンルは違うけれど「ものづくり」をしている我々にとって共感できる点がとても多いと思い、今回大坊さんに取材を申し込みました。かつて多くの文化人も通った、ひとつの喫茶店の存在。閉店した今もなお人々の胸に残り、大切な存在であり続けるお店を作り出した人とは一体どんな人なのか。大坊さんはどのような想いで珈琲を作ってきたのか。春の陽射しが美しいある日都内のご自宅にお邪魔し、お話を伺いました。


「笑顔のような味」の珈琲

「なんのために珈琲の味を作るのかといえば、来てくれた人にほっとしてほしい、私はそういう風に考えていました。ほっとするためには、珈琲は美味しくなければならない」珈琲を淹れてくれたあと、大坊さんは丁寧に言葉を選びながら語りはじめました。

「どのように美味しくなければならないのかといえば、含んだ時にふっと口元に笑みが浮かぶような美味しさでなければならない。味には酸味や苦味や甘味といった要素があったり、それ以外にもまろやかであるとかやわらかいとか、重いとか軽いとか、そして明るいとか暗いとか、そういった言葉も、私たちはテイスティングする時に使います。そしてさらに、表情の話をします。毎日毎日テイスティングをしていると、ふわっと軽くて、やわらかくて、これが笑顔(の味)だよねって、テイスティングをした従業員同士で言い合える時があるんですよね。珈琲に笑顔の味というものがあるとすれば、飲んだ人に笑顔が生まれるのではないかと思ったのです。そういう珈琲を作ろうと思ったのが、私のひとつの芯ですね」

炭になる直前まで豆をローストしている大坊さんの珈琲は、当然のごとく、苦味が強い。酸味や苦味以外にも、まだまだ言葉にすらなっていない味が珈琲の中にはふんだんにつまっているのだろうけれど、そんな複雑な多くの要素をふわりと甘みで包み込み、まろやかなひとつの味にしているのが特徴的だった。「円い味」がする。私は大坊さんの珈琲を飲んで、そんな風に感じた。

「私が考える珈琲の味というものは、液体そのものの味、だけではありません。かかっている音楽であるとか、掛けている絵であるとか、または静けさであるとか、あそこ(当時の大坊珈琲店)は通りに面していましたから、窓を開けておけば下を歩いている人の声とかが入ってきたり、晴れた日はちょっと西日が入ってきたり、そういったものの要素が味にまたなにかしらを加えますね。それも加えて、ひとりひとりの”ほっと”に、繋がるのではないかと思いました」


気持ちをふっと集中させた時に、人は自分自身になると思うのです

「ほっとするための状況や方法というものはひとりひとり違うわけですが、私が考えたのは、その人に自分自身になってほしい、ということです。忙しいというのは、仕事だったり対人関係だったり、たくさんのやらなくてはいけないことや考えなくてはならないことをいっぱい抱えているわけです。もちろんそういうものを抱えてその人自身である、ということに変わりはないですけれど、なにかしら自分自身というものがいろんなもので掻き回されているとすれば、社会に対する時にいつの間にか着てしまっている鎧を、脱いでほしいと思いました。音楽にしろ店の雰囲気にしろ、えい!っと気持ちを集中させることのできるようなもの。例えばこの絵にはなにが描いてあるんだろうとふと集中した時、人は自分自身なんですよ。そうじゃないのかな、と、思ったのです。そうやって自分自身と向き合う時間というものが、帰る時に”あぁ良い時間だったな”と思ってもらえることにつながるのではないかと」

大坊さんの珈琲を淹れる姿は、とても美しい。初めて見た時思わず見惚れてしまったほどだ。香ばしい珈琲の香りがふわりと空間に漂い、ほそくほそく、やわらかな白い光の線のようなお湯がネル袋に注がれる。カップを温め、カップを拭き、という一連の動作はなめらかで、澱みがない。全てを意図して作り上げてはいない、と大坊さんは言うけれど、例えば何かに集中するということを促すためのひとつの表現として、そうした所作はとても的確に機能していると思った。少なくとも私は、大坊さんが珈琲を淹れる姿の華麗さに、集中しないわけにはいかなかったからだ。

お邪魔したご自宅の部屋ではレコードがまわされ、ピアノの音が聞こえるか聞こえないかのささやかな音量で流れていた。当時の大坊珈琲店でもそうだったらしい。印象的だったのが、大坊さんの珈琲を淹れる姿を目で追っていた時には全く聞こえていなかったピアノの音が、ふっとした瞬間、また、聞こえてきたのだ。それはたぶん私が無意識から意識に戻った瞬間で、その時に自分が自分だけの世界にいたことを、まるで悟るように静かに認識した。大坊さんの表現を使うとするならば、自分自身になっていた、ということになるのかもしれない。


味覚とは、完全に個人的なもの

「お店で私は従業員を”君”や”ちゃん”で呼ばないようにしていました。お客様で若い人が来ても、年配の人が来ても同じ言葉遣い、です、ます、で話す。お世辞も言わない。どんなに著名な人でも学生でも同じ口調で、一所懸命珈琲を作って、出すようにしていました。そういう態度は人に伝染すると思うんです。”個”として、私はお客様を見るようにしていました。常連が来ても、常連のように扱わない。例えば常連同士が仲良くなってそこに若い人がいたとしたら、”あの若い人たち”という目で人は見てしまう。けれどもひとりひとりであれば、みんなそんな視線では見なくなる」

味覚というもの自体が、本来「個」のものなのだと、ずっと大坊さんとともにお店を作ってきた奥さまの恵子さんも語ります。

「珈琲を飲むということは、それぞれの自分の味覚で、美味しいなぁと思うわけですよね。でも何をどう美味しいと感じるかは、全く個人的なことなんです」 当時の大坊珈琲店もひとりで訪れる方が多い店だったという。最初はグループで来たけれど「今度はひとりで来ようと思った」と、そんなお客様もいたそうだ。

確かに同じ「美味しい」なのだけれど、「美味しい」という抽象的な表現の中に含まれた多くの「何か」というものは、言葉にできるものではないし、誰かと共有できるものですらない。自分ひとりにしかわからない世界の、愉しみなのである。

ひとりになって落ち着きたいと願いながら、どこかでひとりになること、そして落ち着くことを恐れているような、特に東京ではそういう人が多いように思う。自分はひとりなのかもしれないと不安になって、つい思ってもいないことに同意して、なんだかふと後悔してみたり。かといって「個」であるということや自分自身を繕わずにいることは、口で言うよりはるかに難しい。

けれど大坊さんの珈琲を中心とした世界にいるとそれが普通のことであり、誰にも左右されていない「個」である自分が、知らず知らずのうちに顔を出している。ただ流れに身を任せていたら自然と「自分自身に戻っていた」。大坊さんが作り上げていた世界というものは、そういう世界だったのではないだろうか。忙しない毎日で忘れてしまっていた「自分自身」というものの純粋な感覚を取り戻すこと。その行為は人々にとって一種の「里帰り」とも呼べるかもしれない。社会で与えられた役割を演じる自分ではなく、ただ自分が感じる「美味しい」ただそれだけで良いと言ってくれる場所。そんな大坊珈琲店で一杯の珈琲を飲み、例え束の間でも時を過ごすことに、訪れた人々は深い癒しを感じていたのではないだろうか。

最後に……大坊さんの生き生きとした語り口、そして決して過去形ではない表現の数々に閉店した今もなお、大坊さんの珈琲はおわっていないのだなと、私はそんなことを思いました。「大坊珈琲店」というものはきっと、単に場に与えられた記号ではなく、長い年月の中で築き上げられた「ひとつのスタイル」の名前なのです。

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(写真右)誠文堂新光社「大坊珈琲店」
http://www.seibundo-shinkosha.net/pickup/daiboucoffee/main.php

(写真左)自由空間「大坊珈琲の時間」
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取材時期:2015年3月
掲載:2015年5月29日

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