■今のキューバを見たい!
僕達がキューバの空港に降り立った時、空気の中になんとなくカリブの匂いを感じたのはただの気のせいだっただろうか。キューバを訪れる日本人の例にもれず、革命家チェ・ゲバラや「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」を観て何となく憧れていたキューバという国の上で、僕は珍味を味わうかのように両足を踏みしめていた。そして、傍からは分からないであろう小刻みな身体の震えの中には、知られざる異国に来たという感慨と興奮以外にある種の緊張があった。

日本でのキューバという国のイメージといえば、「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」から思いつく「カリブの陽気な国」という最近一般化されつつあるものの前に、「社会主義で自由のない、怖い国」という負のイメージがどうしてもつきまとう。少しご年配の方なら、40年前の「キューバ危機」による世界核戦争間近といわれた恐怖を、生々しく思い出すかもしれない。日本の友好国であるアメリカと40年以上にわたって激しい対立関係にあるキューバは、それゆえに詳しい情報が入らず、偏ったイメージが固定されてしまっているような気がしていた。

だから、実際のキューバという国がどのようなところなのか、僕はどうしてもこの目で見てみたかったのだ。それも、キューバが変わってしまう前に。

■「クーバ」という国はどんな国?
さて実際に観て歩いて呼吸をして感じたキューバの姿に触れる前に、キューバについて日本でもちょっと調べれば分かる程度の予習をしておこう。

キューバ共和国(Repubrilic of Cuba)はアメリカ・フロリダ半島の南、メキシコの東、ジャマイカの北に位置する国土面積110,922km2(本州の約半分)の島国だ。日本との時差は−14時間。これだけでもすごい距離を感じてしまう。ちなみに「キューバ」は英語による発音で、現地ではスペイン語の「クーバ」と発音しているので、以下「クーバ」という表記に統一したいとおもう。

暑い国というイメージのあるクーバだが、気候は一年を通じて温暖な海洋性亜熱帯気候で、年間の平均気温が約25度、冬でも平均気温は20度を下回ることがないらしい。僕たちが訪れた3月末から4月の初め頃は乾季にあたり、ずっと晴れの日が続いていた。ただ、貿易風というこの地独特の強風が吹いているため、暑くても比較的過ごしやすいという。クーバの中心であるクーバ本島はカリブ海最大の島で、一部の山岳地を除き農業生産に適した土地が多い。そのため柑橘類を含め、農業も盛んだ。

クーバは全島で人口1,121万人(2001年クーバ企画省)の人口を抱えている。人種による差別をなくすため、公式には人種構成の調査を行っていないが、欧州系40%、アフリカ系10%、混血50%、その他1%程度と推定されているとのこと。クーバはアフリカ系が多いと思っていたので、この数字は正直ちょっとびっくりした。

主要産業は植民地時代から砂糖、煙草(葉巻は有名)、珈琲、ニッケル、水産業が有名だが、ソ連崩壊後の経済危機の打開のために外貨所持が解禁されたことを受け、現在では観光産業が急速に成長している。ちなみに通貨はキューバペソだが外貨獲得奨励政策の影響で米ドルが普通に使用できるとのこと。公定レートでは1ペソ=1US$となっているが、どうやら闇レートが存在するらしい。

スペイン統治時代から残るコロニアル風の壮麗な建築物が立ち並ぶアバナ(英発音=ハバナ)旧市街はユネスコの世界遺産にも登録されており、近年では日本からの観光客も年間1万人を突破し、人気を博しているという。

■激動のクーバ史
さて、このクーバという国について触れるならば、その激動の歴史に触れないわけにはいかない。

クーバの「公式の」歴史は、1492年のクリストファー・コロン(コロンブス)による「新大陸」の「発見」に始まる。直後からスペイン人が大量にクーバに入植を開始し、それとともに先住民族が迫害を受け、またスペイン人が持ち込んだ伝染病などによってほとんどが絶滅してしまった。そこでスペインはアフリカから奴隷を次々と連行し、クーバはスペイン系とアフリカ系、そしてその混血人の国となっていった。

以来400年にわたってクーバはスペインの植民地支配を受けるが、本国の圧政に対し現地住民達は1868年に第一次独立戦争を始めた。さらに1898年の米西戦争を通じて、1902年には一応の独立を勝ち取る。その時の独立運動の指導者のひとりで、1895年に志半ばにして戦死を遂げたホセ・マルティ(Jose Julian Marti y Perez 1853〜1895)は、今もクーバ人の心の英雄となっている。

しかし、スペインからの独立は遂げたものの、アメリカの介入による勝利であったために、今度は事実上アメリカの支配下におかれることになり、後のバチスタ政権などに代表されるの親米傀儡政権を通じ、アメリカとその傀儡政権がキューバ利益を独占することとなった。

そのアメリカによる実質上の植民地支配を脱し、真の意味での独立を勝ち取ったのが1959年のキューバ革命である。時の親米派・バチスタ軍事政権はフィデル・カストロやエルネスト・ゲバラを中心とした反米独立運動によって1959年に瓦解し、カストロらによる革命政権が成立した。

だがクーバの完全な独立はアメリカとの対立を必然としたため、その後1961年のピッグス湾事件をきっかけにアメリカとの国交が断絶し、関係は悪化した。アメリカによる経済制裁により窮地に立たされたクーバはソ連に近づき、1962年にはクーバにソ連のミサイルが配備されたためにアメリカがクーバの海上封鎖に踏み切り、いわゆる「キューバ危機」という核戦争必至の緊迫した情勢を招いた。

その後のキューバは度重なるアメリカの干渉に抵抗しながら比較的安定した状態を保っていたが、80年代後半〜90年代前半に相次いで起こったソ連・東欧の共産主義国の崩壊に伴い、クーバは建国以来の経済危機に陥った。しかし経済回復のためのいくつもの柔軟な改革策を打ち出し、現在は再び徐々に上向きになりつつあるとみられている。

■革命後のキューバ
もちろん現在でもクーバは共産党による一党独裁体制で、国家元首は国家評議会議長であるカストロ(Fidel Castro Ruz 1926〜)だ。キューバ革命・キューバ危機以来の長期にわたるアメリカによる経済封鎖の影響で、決して経済的に豊かな国ではないが、医療・教育の完全無償提供、食料品の配給制度などは充実している。

教育体制の充実により成人の大半は日本でいうところの高校卒業以上の学歴を持ち、識字率95%以上はアメリカをはるかに凌いで日本の持つ最高水準に迫るというのは驚きだ。また教員・医師については積極的に他のラテンアメリカ諸国に派遣していて、逆に留学生の受け入れも盛んだ。

さらに日本でも公開され好評を博した映画「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」に見える通り、音楽大国として知られ、サルサやボレロなどの発祥地であることはよく知られている。また美術・文学においても優秀な人材を多数輩出し、中南米では有数の文化発信大国といえる。

ちなみにノーベル賞作家であるアメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway, 1899〜1961)が人生の1/3にあたる22年を過ごした地としてもクーバは有名だ。『誰がために鐘は鳴る』や『老人と海』などの代表作のほとんどがクーバ時代に書かれたもので、今でもクーバにはヘミングウェイにまつわる名所がいくつも残されている。

■僕たちが感じた“CUBA”
今回のクーバへの旅は日本では初春に当たる3月末から4月初旬にかけて実行された。日本からクーバへの直行便はないので、カナダを経由してクーバに入る。到着した空港は閑散とした印象で、全くといっていいほど飾り気のない感じに見えた。そしていきなり最初のエスカレーターが止まっていたのに気がついた瞬間、僕の中での「社会主義国・クーバ」のいかめしいイメージは瓦解し、「ラテンの国・クーバ」に置き換えられてしまった。

僕達はラ・アバナ(英音=ハバナ)旧市街のホテルに宿泊し、ひたすらラ・アバナの中を歩き回った。街中や住宅地を歩いていくとそこかしこから「チーノ(Chino)!」と声を掛けられる。これは「中国人!」と呼ばれているのだけど、もとよりクーバ人は中国人と韓国人と日本人の区別がつかないらしい。だから「チーノ」とはこの3カ国人の総称みたいな感じなのだ。

一歩踏み出した時から、クーバの街並みは想像していたものと全く違っていた。スペイン領時代から残るコロニアル風の壮麗な建築物は壁がボロボロにはがれたりしているが、息を呑むような美しさ。そこら中を走かけずり回っている車のほとんどは1950代くらいの懐かしいデザインのアメリカ車。まるでタイムスリップしたような感じだ。

ところが一歩裏通りなどに入っていくともう道はガタガタになっているし、そこかしこに食べ物が捨ててあって、はっきりいって臭い。往時は素晴らしい景観であっただろう街並みも崩れたりして、まるで廃墟のような感じだ。

ではそういったところに住んでいるクーバの人たちはどうにもならない不満にまみれ、暗く澱んだ空気の中になすすべもなく佇んでいるだけかといえば、そんな様子は全くなかったのだ。確かに日本と較べると物資の乏しさや住居環境の悪さはかなりのものがあるが、生活や教育・医療が国に保証されているからなのか、貧しいなりに生活をそこそこ楽しんでいるといった印象を受けた。

また社会主義だから常に警察が監視の目を見張らせ、軍がパトロールしている……というのも全くないわけではなかったが、そこかしこで警官が上半身裸のおっちゃんと楽しげに談笑していたりと、ゆるいことこの上ない。見ていると、ここは本当に社会主義国なのか?とおもうほどゆったりのんびりとしていて、アメリカなどで喧伝されているほど不自由で息苦しい雰囲気は全くなかった。

これはやはりクーバ人の気質によるものが多いのだろう。いわゆるラテン気質のクーバ人は、陽気でおしゃべり好き。日本人はクーバではとても珍しいので、歩いているとしょっちゅう声を掛けられる。もちろん、葉巻を売りつけたりいつの間にか酒をおごらせるようなたかりも多いのだが、概ねクーバ人は誰もが友好的なのだ。

そして特筆すべきは治安のよさだ。どこに行っても路上や家の前に用もないのに人がいっぱい突っ立っているし、裏通りなどはやばそうな感じに見える(確かに油断は禁物)のだけど、滞在中、どこに行っても生命の危険を感じるようなことは一度もなかったし、実際危ない目に遭うことはなかった。おそらく、アメリカなんかの方がよっぽど危険な国だろうし、今なら日本の方が治安が悪いといえるのではないだろうか。

またクーバにいて感じたのは、クーバ人の文化度の高さだ。街のどこに行っても本や新聞があり、公園では古本屋が軒を連ね、街中では新聞屋が売り歩いている。これは識字率が高くほとんどの成人クーバ人が高卒以上の学歴を持っているので、ニーズが高いためだろう。またあちこちに画廊があり、また雑貨店には絵の具などの絵画用品が普通に販売されている。飲み屋にはちょっとした楽団がしばしば入ってきて、素晴らしい演奏を聴かせてくれる。スポーツ教育の盛んさはもはや説明するまでもないだろう。スポーツ選手や音楽家だけでなく、数多くの文学者や画家まで輩出している片鱗が、確かに街の中に見られたのだ。

■ビバ!キューバ!
今回、狭い範囲ではあるがクーバという国を旅して分かったのは、クーバはやはり誤解されている国なのだなあ、ということだった。確かに、社会主義によるいくらかの自由の制限、アメリカによる経済封鎖が原因の慢性的なモノ不足、それらに起因する住環境の劣悪さはあった。だが、そんな中でもクーバの人々は陽気に、ゆるい生活を楽しんでいるように思えた。経済的な豊かさがなくとも、文化的な豊かさがあれば、人間は人生を楽しむことができるのではないか?そんな、別の価値観を教えてもらったような気がする。

僕達が実際に見て歩いて感じたクーバは、一般に言われているほど、不自由でも窮屈でもなかった。社会主義の国という以前に、やはりラテンとアフリカの血を引く人々の国なのだ。アメリカの経済制裁がなければ、もっと物資は豊かであろうし、経済的にもゆとりのある国になっていたはずである。そのような意味で、クーバは「楽園になることを禁じられた国」なのかもしれない。それでもクーバの人々は今日も楽しく、そして逞しく生きているだろう。

僕はもう一度、キューバにいきたい!!!


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掲載日 2004.4.16